1993

 地元横須賀にて佐藤トモが主催するYSRレーベルから10枚限定レコード『レッツ・ゴー・チューブ』を「中重雄とサンセットイン」名義で発売。 バンド名義になっているが、実は中シゲヲ(gt)が趣味で一人宅録した音源であり、この曲は後の「DOLPHINS」である。

 このレコード発売を記念して(?)急遽ライヴをやることになり、中シゲヲ(gt)、佐藤トモ(bs)、花岡昭和(ds)、菊池明(gt)の4人で「中重雄とサンセットイン」を結成、横浜クラブ24にて朝の4時に出演(!)、ベンチャーズやシャドウズ、ディック・デイルのナンバーに加え「DOLPHINS」や「NEW EAST」といったオリジナル曲を演奏した。

とはいえこのライヴ一夜こっきりのバンドのはずが、なぜかごく身近な仲間(それもほんの数人だが)に好評で、メンバーそれぞれのバンドがあったものの機会があればまたやろうか、みたいな状況になりその後数回ライヴをやることに。


1994

 1月に横浜で行われたライヴで後にバンドの核となる「MISIRLOU」を初演、ある意味この瞬間からサーフコースターズの歴史が始まったのであった。

 本格的に活動することになり個人の活動の為脱退した菊地明(gt)に代わりオーディションで合格した八木麻紀(gt)が加入、バンド名を「ザ☆サーフコースターズ」に改め、デモ・テープを佐藤トモ(bs)所有の8チャンネル・カセットMTRで録音。「ドルフィン」「サマータイム・ブルース」「サーフサイド・ヴィレッジ」「ゴー・ホーム」「ニュー・イースト」「ブラック・サンド・ビーチ」ライヴ・ヴァージョンで「アウト・オブ・リミッツ」「ミザルー」「夕陽の渚」などが収められたこのデモ・テープは今やオークションで高値が付く程になっている。

 その後横須賀かぼちゃ屋をホーム・グラウンドとして地元横須賀、横浜を中心にライヴ活動をコンスタントに行う(祭りや結婚パーティの余興含む)。ある日たまたまあるオールナイト・イベントに出演した際声をかけられ、新番組「えびす温泉」のバンド・バトルのコーナーに出場することになり、「青春の記念にテレビ出演のもいいかな」と軽い気持ちで出演するも、大きな反響を呼び、なんと番組収録直後にメジャー・デヴューの話をいただくことになったのであった。実はこの頃すでに中シゲヲ(gt)や八木麻紀はバンドを辞めようと思っていた時期だったので思いがけない事態に少々戸惑っていた。

 そして「えびす温泉」が放送されるころにはすでに鈴木慶一氏、OTO氏プロデュースによるレコーディングが始まり、何がなんだかわからない状況のまま、1週間程の作業が終わりリリースを待つことに。


1995

  テレビ出演の為か1月に行われたライヴでは少し客も増え(それまでほんの数人の身内くらいしかいなかったのだ)、そして2月1日に渋谷クラブ・クアトロで行われたテレビ番組「えびす温泉」のライヴ・イヴェントではトリを務めることになる。満杯の客に自分達は受け入れてもらえるのかという本人達の不安をよそに、見事イヴェントは終了、確信を得る事になる。

 3月1日デヴュー・アルバム『サーフ・パニック '95』発売。当時まだインストのアルバムが売れることはほとんどなかったにもかかわらず、タワーレコードやHMVといった都内の外資系レコード店で爆発的に売れ、売り切れ続出。中でもデヴュー直後に行われた池袋HMVでのインストア・ライヴでは在庫が底をつくほどであった。

 4月に発売されたシングル『チェイシング・シャドウ』につづき六本木R Hallで初ワンマン・ライヴを開催。アンプラグド・コーナーを挟みつつライヴ直前にレコーディングされた『サーフサイド・ヴィレッジ』からの曲も演奏し大成功を納めた。

 7月には渋谷クアトロで2度目のワンマン・ライヴ。八木麻紀(gt)、佐藤トモ(bs)、中シゲヲ(gt)それぞれの歌を含む各個人のソロ・コーナーをフューチャリングし、特にリンク・レイのカヴァー「ランブル」では中シゲヲのギター破壊(!)のパフォーマンスまであり観客の度肝を抜いた。

 8月にはディック・デイルの初来日のオープニング・アクトとして出演、デイルのアンコールにはサーフのメンバーも加わり歴史的な共演を果たす。

 その後休む間もなく新作のレコーディング、シングル『イントルーダー』発売、12月にはオリジナル・メンバーでは最後となる『ウェイティン4ザ・サーフ』を発表。メンバーそれぞれが選曲したカヴァーとオリジナルによる画期的なアルバムだったものの、元々音楽的思考が違うメンバー間の確執が勃発。その月に行われたワンマン・ライヴにてバンドの創設者でもある佐藤トモが脱退となった。


1996

   新たに残ったメンバー3人八木麻紀(gt)、佐藤トモ(bs)、中シゲヲ(gt)と外部ミュージシャンを起用してレコーディングがスタート。八木麻紀がベースにスイッチし、また彼女のヴォーカルを大幅にフューチャーした意欲的なアルバムではあったが、しかしすでに亀裂が入ったメンバー間の溝は埋まらず。

篠原ともえのデヴュー・アルバムに「レインボー・ララ・ルー」(2003年発表のアコースティック・アルバム『p.m.』にセルフ・カヴァーとして収録)を提供、演奏に参加する。などあるものの、6月にシングル『アストラル・サークル』、アルバム『サーフェイス・インプレッション』がリリースされる頃には事実上ほぼ解散状態になっていた。

 8月に福岡で行われたFM収録を兼ねたライヴをもって八木麻紀(bs、gt)と花岡昭和(dr)が脱退、中シゲヲ(gt)一人でサーフの看板を背負うことになる。

 石野卓球、ケン・イシイ、808ステイトといった当時最先端のアーティストによるリミックスと、石野卓球とのコラボレートした12inchアナログ・シングル「ワイルド・チェリー」やホンダ・インテグラCM曲「フリー・フォール」を収録したアルバム『サーフデリシャス』を発表。

この頃サーフコースターズとしてライヴができなかった為、ライヴ活動は中シゲヲ名義で行われることになる。そのバッキング・メンバーとして集められたのが栗田伸広(bs)、酒井昌史(gt)、みやけこういち(dr)だった。3人は元々サーフコースターズのカヴァーを含むサーフ・インスト系のバンドをやっていた為、中のバックを務めるのは容易なことだったのである。

三軒茶屋ヘヴンスドアで定期的に行われた中主催のイヴェント「サーフデリック・パーティ」の第一回目では八木もギターで参加し、事実上久々のサーフコースターズのライヴとあって、大盛況となった。

 そのかたわら中はプレイステーション・ゲーム・ソフト用のサウンドトラックを手がけることになり、スタジオ・ミュージシャンをバックに録音。契約の都合とはいえ、サーフコースターズ名義では中シゲヲ一人、中シゲヲ名義でライヴをやる際は後のサーフコースターズに加入するメンツが務めるという、なんとも奇妙で複雑な状態がしばらく続くことになる。
(C) 2004 SURF COASTERS.